さらに俺の土曜日もすぐなくなってしまうのだろうか?

気まぐれ更新。いつまで続くやら……。

好きになる理由

 今更ながら「天気の子」を観た。映画館に行ったのは4月以来(電話を切りたかったからという相当消極的な理由だった)で、年に2回も映画館に行くことなんて何年ぶりだろうか、という経験だった。

 殆ど映画館に行かない自分がわざわざ行ったのには、作中に学生時代のアルバイト先である「さるびあ丸」(東京湾納涼船で使われた船である)ががっつり出てくる、と聞いたからというのが大きい。実際本当にがっつり出て来た(細かい所まで再現しているなと感心した)し、東京の知っている風景も見られて、先週に引き続き学生時代を振り返る事が出来たので、観て良かったと思った。ストーリー自体はまあ、綺麗に終わって良かったね、という感じだったとしか言うつもりは無いけれど。途中は背景の綺麗なFLCLだった()

 映画の中身の話はこれ以上無いのだけれど、映画を観ながらふと自分が何かをすることの理由付けに「自分との関わり」を挙げているなあと考えてしまった。今回ならば「バイト先が出た」ということであるし、自分の趣味のヤクルトスワローズにしても「松山でキャンプをしていたから」という理由で関心を持ち始めたし(今でも他人に好きな理由を聞かれるとそれを言っている) 、ヤクルトを応援する前は「近所のスーパーが安くなるから」という理由を人に言って、ホークスを応援していた。スポーツ以外だとスピッツ(バンド)が好きだと公言しているけれど、「母親が聞いていたから」ということを理由にしている。

 今回の本題と外れるので詳しく書くつもりは無いのだけれど、本当はそれぞれにもっと好きな理由があるはずなのだと思っている。だけれども、地縁や他人、外部の影響を理由にしがちになっているのが現状。

 どうしてこういうことになるのだろうとぼんやりと考えていたけれど、結局どこか「恥ずかしい」という気持ちがあるのではないかということに至った。自分がそれが好きだということに対して、周りがどう思うかを過剰に気にしているのだなと思う。何かが好きだということは極端に言えばその人のセンスを公言することだと思うので、そこに対してやや気が引けているのだろうと思う。「何が好きかで自分を語れよ」、みたいな名言(寧ろネタな気もするけど)もあるし。

 多分、自分外的な理由抜きに良いなと思ったものは公言するかは置いといて、変な理由付けすることなく好きだと思って関心を持てば良いのだと思う。「自分のガラじゃない」と敬遠をする必要も無いのだろう。

 正直、周りの人間は僕に関心が無いのだから、(迷惑をかけない限り)周りの目を気にする必要は無いのである。というわけで、明日はタピオカミルクティーを買ってみようか(買わない)