つづりっぷ

気まぐれ更新。いつまで続くやら……。

松山にサイゼリヤが欲しい

 個人的に松山という土地は好きで、それには当然ながら生まれ故郷補正もかかっているとはいえ、知り合いには「松山はいいぞ」(これも死んだ言い回しな気もする)と言いたい。

 いい所を挙げると多分キリがないのだが、そんななかでケチをつけるとすると「サイゼリヤが欲しい」ということになる。Twitterにも書いたけれど、新幹線よりもサイゼリヤの方が地元で暮らすには必要な、はず。

 そもそも大前提として、愛媛にはサイゼリヤがない(多分四国にない、調べるつもりはないのでその辺りの正確性は無視して欲しい)。本州九州に家族旅行した時にセブンイレブンでわざわざ買い物をしていたような時代を18年後ほど経験していた人間であるが、地元に無いものを必要以上に有難がるところはあって、自分の東大入試の前日もわざわざ渋谷のサイゼリヤで飯を食べた(ちなみに昼は2年連続でやよい軒だった)し、アルバイト先の研修の後はメンバーでサイゼリヤに行くことが恒例であった。そして地元から親が東京に来た時のご飯は(以下略)

 松山の人間は「熱しやすく冷めやすい」気質が飲食店に対しては特にあるように思うので、おそらくサイゼリヤが出来れば最初は繁盛すると思っている(信じられないかもしれないが、セブンイレブンが出来たときにはアドバルーンが上がり、行列ができたは2013年前後のこと……)。そして多分、場所を間違えなければずっと繁盛すると思う。

 個人的にその「場所」となると、ずばり交通の要所である伊予鉄松山市駅、あるいはJR松山駅だと思っている。特に個人的に後者に期待をしたい。残念ながらJR松山駅で「普段使いの人が」飯を食べられる場所がそれほどないのである。帰省の度にJRを利用するようになったが、割とこれが死活問題で、毎回カレー屋を利用するしか選択肢がなくなっている(これはこれで良いのかも知れないが)

 JR松山駅に駅ビルが建つことは無いと思っているし、仮に駅ビルが出来てもチェーン店の巣窟になるだろうし、多分松山でそれをするのは面白くはない(結局金が松山に落ちないのである、東京の郊外とはまた話が変わってくる)。それでも家族連れが飯を軽く食べられる所としてサイゼリヤくらいはあっても良いのではないか、というのが正直なところ。車に乗って行けるところという事で飯を食べる、拘りが強すぎるような気もしなくはない。

 「県庁所在地の駅に降りたらサイゼリヤ位しかなかった」というのも、それはそれでネタになって多分良いはず、多分……。

 

 

カメラが止まらない

 たまにはここにも。ほんとうにたまにもなので、次回は何時になることやら……。

 

色々な場面で写真を撮ることが多い。自分自身はそこまで撮らないけれども、遊びに行ったら景色の写真は撮るし、集合写真なんかは1枚撮ろうと毎回言う質の人間ではある。

 ここ数年、インスタやらなんやらの普及で更に「写真を撮る」ことの頻度が増えたように思う。別に「インスタ映え」を意識することが悪い事とも思わない(TwitterのTLに二次元の女の子の画像をいい歳になって挙げている方が本来よっぽど「アレ」なのである)し、実際にいい企画だなと思うものも昨年あったので、自分でもやってみようかと思う所、多分面倒くさいのでしないけど。

ただ最近多いなと思うのが、写真以上に動画の投稿だなと感じる。大人数でいるとき、どこかに「カメラマン」がいる確率が高い。別にそれをとやかく言うつもりは無いのだけれど、割と動画が残るのはキツいのではないかなと思う事もしばしば。気づいたらその場にいない人に様子が「公開」されていて、別の場で話題にされている、ということもあり割と気恥ずかしいことも……。

そもそも話題にされて恥ずかしいことをしている時点で大人としては良くないのではあるが、その場の雰囲気というものもある程度はあるということにしておいて欲しいなと思う(非常にレベルの低い言い訳ではあるけど)。今の中高生は大変だろうなとオッサン臭いことをちょっと思いながら。寧ろ彼らはそういうのに慣れてそうな気もするのかなあ。

 

 

「無理」も必要??

 「働き方改革」というようなことを言われる。また、部活動に対しても「ブラック部活」というような表現がなされることがある。今まで当たり前だと思われていた、度を過ぎた(深堀するつもりはないけれど、この手の話で「勉強のさせ過ぎ」という話は最近そこまで聞かないのは不思議な気もする。「ガリ勉」という蔑称が既にあるので今更話題にする必要が無いのかも知れないが)。とはいえ、見直しも度が過ぎてはいけないようにも思う。

 勉強でもスポーツでも仕事でも、何かを習得する、身に付ける、あるいはその質を上げるとなると恐らく一番良いのは能動的にそれなりの強度で訓練をすることであるように思う。「好きこそものの上手なれ」とはまさにその通りで、能動的に練習ができる、追求が出来る人に対して強制されている人間が勝つ、というような事は殆どないはず(「のびのび」が一番と言っているわけでは無く、あくまでも自主的にストイックにやる人が一番という話)。

 ただ、残念ながら好きな事だけやれば良いという人はほとんどいないわけで、嫌いなことをせざるを得ない場合もある。そしてそういった状況の中で、能動的に、ストイックに取り組むことの出来る人間は稀であり(お前が怠惰なだけではという意見はここでは受け付けない)、仕方なく「やらされる」わけである。

 この「やらされる」という場面で、ある程度の「無理」も必要なのではないかと思う。嫌なことである以上、手を抜くこと、(悪い意味で)楽をすることが優先事項になるわけで、自分で強度のコントロールをすることが難しい。「自主的に」追い込む場合に比べると効果結果は劣るのかも知れないが、サボってしまうよりは恐らくは意味はあるはず(極端な例ではあるが、所謂「自称進学校」も「進学校」ほどではないにせよそこそこ結果が出ているのはそういうこと)。

 「働き方改革」云々や「ブラック部活」の類にたまに思うのは、↑のような「無理」「強制」を極端に否定していないか、という点(これまた深堀しないが、「ゆとり教育」は批判する割に「働き方改革」には批判があまり行かない)。部活動を例に挙げるのならば、試合の時期が近くなった時に普段より練習時間を延長する、というようなことはあっても良いと思うが、それを「ブラック」の一言で片付けても良いのだろうか。

 理不尽なことを経験しろ、というのではなく、場合によっては「しんどい」状況を乗り切る必要があるのではないだろうか(当然「しんどい」状況がサボったツケとしての状況ではないことは前提ではあるが……)。最近の改革が必要な「無理」、あるいは自主的な「無理」も極端に否定してしまっているように思わなくもない。当然ながら塩梅には細心の注意が必要であるけれど。

 

 まあ、大半の人は今現在どこかで「無理」をしているので、これ以上何を言うかということにはなるかも知れないが……。

 

生え抜き

 たまにはこれも使わねば……。ヤクルトの今シーズンが終わりかけている中で、ツイートしづらかったことをちょろちょろ。

 どうして今の職に就いたのかという事はよく聞かれる(し、そういう風に人に聞かれた時点で話のネタとしては成功だと思っている)中で、ありきたりではあるが「地元が好きだったから」というような内容の解答をすることがしばしばある。

 実際の所なんとなく戻ってきた、あるいは周りがトーキョーに残るから出てみたというような感じでもあるのだけれど、率直にそれを言うわけにもいかないので、「地元が良かった」というような解答をする。そしてそれは大抵すんなり受け入れられたし、人によっては「偉いね」などと言ってくれる場合もあった(それはそれで意味がよく分からないのだが……)。

 つい最近、初対面の人と↑のような話題になり、同じような解答をしたところ「そもそもそれならどうして東京に一度出たのか、地元が好きならずっといる事が地元にとっても一番良いことなのでは」というような指摘をされ、初めての事であったので(アルコールが入っていたとはいえ)解答に困ってしまった。

 地元の為に何かをしたいという人間が一度地元を出てはいけないのか、いけないまでではないにしろ、マイナスに捉えられるという事があるのかということは自分の中で思いつかなかった疑問であり、しばらく(ぼんやりとではあるものの)考え込んでしまった。確かに「好きならその場にずっといるはず」という話は筋が通っているようにも思える。そもそも東京に行こうと思ったのも単純に偏差値の問題であったのは否定できないので、根本的に僕が浅い事しか考えていないということが問題ではあるのだろうけど。

 ただ、「地元に残っている人は好きで残っているのか」という事を考えていると、そうとは思えないのがあくまで経験則であるが正直なところ(全員が全員というわけではないが、割合はそこまで高くないと思う)。自分を正当化するわけでは無いが、別に出自にそこまで拘らなくても良いのではないかなあと。個人的には寧ろ「一度出て良さを再認識する」くらいの方が良いとも思わなくはない(具体的にどういえばいいのかが分からないのが自分の考えの浅さ、語彙の無さの現れれでありまた悲しいが……。)

 「初志貫徹」「首尾一貫」と言われるように、人間ブレないのが評価されるのかも知れないが、正直6年前の、部活と学校行事しかしていないようなクソガキの判断を今になって言われることは粗探しが過ぎる気もしなくはないので、気にし過ぎないようにはしたい。

 とはいえまあ、具体的にどうしたいのかをもう少し考えるべきなのだろうとは20代も折り返しなので、頭の片隅には置いておきたい。書類の山の中でその余裕があるかはさておき……。

 

 

部活動は残そう

 縁あって中学生のサッカーを不定期ではあるが見る立場にある。休日はおかげ様で充実しているので、本業以上にこちらに研究熱心になっていて、W杯やらJリーグを観ていても「なにか参考にできる、見本に出来るプレーは無いかな」という目線で見てしまう(笑)当然ながら自分が出しゃばり過ぎるのは良くないので、その辺りの加減は必要なのだと思っているが。

 休みがあったために総体の観戦もすることが出来た。そこで感じたのはどの中学校も自分がサッカーをしていた時に比べ部員が減っているようだ、ということ。ちゃんとデータを取っているわけではない(し取るつもりも無い、悪しからず)のであくまでも感覚ではあるが、もっと人がいたような気がしたのが正直なところ。

 愛媛FCを筆頭としてクラブチームに人が流れているのか、あるいは少子化の影響なのかは分からないが、それなりにメジャーであると思われるサッカーでも人が少なくなっていると感じてしまうことには驚いた。

 「体育会系」という言葉へのイメージがここ数年で変わりつつあるように感じる(というよりはこの言葉に対してネガティブなイメージを持つ人が多い環境に自分がいた、という方がもしかすると正しいかも知れないが)中、「スポーツをやりたい人は学校外で」という流れももしかすると出てくるのかなと。サッカーに限った話なら、海外はクラブでやるのが当たり前であるし、一般的な部活のように毎日練習をするわけでもない。こっちの方が今の時代には受けそうな気もする。

 ここまで書いたものの、個人的には部活動に頑張ってもらいたいと思っている。特に中学生までの段階なら、競技を始めるにあたって外のクラブで始めるより、学校内で始めるという方が敷居が低いのではないだろうか、というのがその理由の一つ。当然ながらやる気満々な人間はどこでもやるわけだが、やるか否か迷っている人間にとっては外に出ていくことのハードルはそこそこあるように思う。

 「学校で募集されているのを見て」というきっかけで何か始められる、学校経由で何かに触れる機会があるという機能は個人的には学校が今後も担って欲しいところだと思っている。勿論やりたくないことをやらされる、時間の無駄であった、自分で色々選ぶ方が早いというようなご意見はごもっともであるが、それは本当に一握りの優秀な方にしか当てはまら無さそうなので、勘弁していただきたい所。

 指導できる人がいないなら外部から入れる、あるいは他校との合同チームにしてみる、というように、今まで通りという形では存続できないかもしれないが、何とかして残して欲しいように思っている。完全に外野の意見なので、何でも言えるわけだが()

 

ネットで「仲良く」なる

 ただの旅行記と化しつつあるので、Twitterのリンクにこれを貼るのもやや気が引けてはいるが、「気まぐれ更新」と銘打つ以上は全く問題ないので多分このままに。

 地元に戻って1年経つが、ありがたいことに結構な頻度で人が遊びに来てくれた。遊びに来てくれた際には大体晩御飯を食べに行くのだが、実家暮らしで親が夕食を用意してくれる環境下であると「今日は夕飯が要らない」という事は当然ながら伝えなければならない。そして、友人と飯を食べる旨を伝えると「どんな友人なのか」という事は関心事らしく、たまに聞かれることがある。

 「どんな友人か」という質問に対する答えは大体「どのコミュニティの知り合いなのか」(ex.学部、アルバイト先、学生寮)というものになる訳であるが、その際に頭の中に「Twitterでよく絡む」という事が口には出さないにしろ浮かぶ。10年前の自分にネットで人間と仲良くなることがあると伝えると気持ち悪がられそうではあるが、事実は事実。

 Twitterで知り合った人と飲みに行くようなこともあるので、今までの友人関係とそこまで違わないようにも思うが、「共通の思い出」の薄さということは感じる。文章で会話をすることもあり、お互いが何をしているのか分かり、毎日会っているような気にもなるが、ネット上「での」思い出話をすることは少ないように思う(ネット上「で」思い出話をすることは多いかも知れないが、出来事そのものは所謂リアルの話であることが殆ど)。

 元々の知り合いにTwitterやらなんやらで連絡を取って会うと、「久々にあった気がしない」と言いながらも前回会った時の話が話のきっかけになることが殆どで、ネット上での共通の思い出の薄さを実感することになる。ただ、このことで「ネットきっかけの友人なんて信用できない」と決めつけてしまう事は勿体無い。思い出が少ない以上、相手に対する関心・話題は当然ながら今の事、現状となり、ネット上での友人(含ネット上でやりとりの多い友人)はそういう意味で現状を肯定しあっているということになる。関係を簡単に絶つことも出来る中でそういうことをしているという事は、尚更居心地(この表現が正しいかはさておき)が良い、話し易い相手、と言っても良いのではないか。 内容の正確性に疑問はあるがこんな記事もあるように、ネット経由の人間関係も悪く無いように思う。

勿論、実際に会ったら違っていた、ということもあるので、結局「うそはうそであると見抜ける」ことは必要ではあるのだけれど。(多分この言葉は「ネット上での」思い出の一つなのであろう……。)

○○タイプ

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』という新書をちょっと前に読んだ。健康問題とか、医学云々が絡む新書の類は胡散臭いので読まないという勝手なポリシーがあるので基本的に読まない訳であるが、まんまとタイトルを見て読んでしまった。冷静に見ればこのタイトルも胡散臭い部類に入るのだろうが、自分のことを言われているように感じると気になってしまう。要は気にしいなんだろうけれども。

 困難から避けてしまう、頑張り切れない人の事を書いてあり、どういう経緯でそうなるのか、ということや、そのような症状を見せていた有名人(井上靖やら星新一が挙げられていた)を具体例として挙げていた。

 自分にその気があるような気もしているので終始「あっ、分かる」というような感じで読み進めていた。単なるバーナム効果の一環に過ぎないかも知れないが、読んでいる時は自分の過去の迷惑をかけたこと諸々が浮かび何とも言えない気持ちになったのは事実。結局の所対処法に関しては「逃げずに少しづつやっていく」ということで、それが出来れば苦労しないと言いたくもなったが、300ページほど書かれた後で結論がそこなら、そうするしかないのかと逆に開き直れたような気もする。

 具体的な対処法はやや期待外れでこそあったが、本を通じて性格であるとか状態に関して、「このようなタイプ」というように(その正しさの信憑性はさておいて)分類、説明されることは少々気が楽になるように思う。「性格診断」の類をついついやることも多分同じようなことなのだろう。

 自分を分類されるにあたっては大体良い点・悪い点をそれぞれ挙げてもらえるわけであるが、本であるとかネットでやるようなタイプわけで自分の属するタイプの悪い点を挙げられてもあまり悪い気持ちにならないのは割と不思議。他の人がどうかは知らないが、自分の場合人に面と向かって言われると確実に良い顔はしないように思う。

 結局のところ自分しか結果を知りえない所で、都合の良いように解釈したいだけで。小心者なのだろう……。このような性格が冒頭の本でいう「回避型」に当てはまっているのが何とも悲しいわけだが(苦笑)